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鳥取城跡はどんな城? 「城郭の博物館」と呼ばれる名城
『鳥取城跡』のルーツは戦国時代の山城です。
そのため攻めづらく守りやすい構造で、城塞らしい実戦的な特徴を備えています。
かの織田信長も「堅固な名城」と評し、天正9年(1581年)に行なわれた「鳥取城の戦い」では、戦国史に残る籠城戦の舞台となりました。
山頂(本丸)からの眺めも素晴らしく、鳥取市内から日本海まで見渡せます。
これは城下町や敵の軍勢を見張るための好条件で、そのため「日本(ひのもと)にかくれなき名山(に築かれた城)」と讃えられました。
そして『鳥取城跡』には、戦国時代から江戸時代にかけて造られた貴重な遺構が多々残されています。
そのため「城郭の博物館」とも呼ばれており、城好きや歴史好きにはたまらない名所!
特に江戸時代末期に築かれた「巻石垣」(写真上)は、日本で唯一の球面の石垣で、『鳥取城跡』でしか見られません。
鳥取城跡の歩き方① ~山下ノ丸~
『鳥取城跡』は山に築かれた山城のため、急な登り坂があちこちにあります。
なるべく動きやすい服装と靴で行きましょう。
見どころは山麓の「山下ノ丸(さんげのまる)」と山頂の「山上ノ丸(さんじょうのまる)」に分かれていて、『鳥取城跡』全体は「久松公園(きゅうしょうこうえん)」とも呼ばれています。
まずは「山下ノ丸」から入りますが、本来の正門の「中ノ御門表門(なかのごもんおもてもん)」は復元工事中のため、それに繋がる「擬宝珠橋(ぎぼしばし)」とあわせて外から見学して、「鳥取県立博物館」前の道から入場しましょう。(擬宝珠橋・中ノ御門表門の左手)
擬宝珠橋(ぎぼしばし)
お堀の上にかかった見事な木造の橋。
1621年(元和7)年に造られ、その後1897年(明治30年)まで、幾度かの架け替えや修繕を経て存続しました。
現在かかっている「擬宝珠橋」は、2018年の秋に復元されたもの。
長さ約37m・幅6mもある日本最長の城郭復元木造橋です。
中ノ御門表門(なかのごもんおもてもん)
「擬宝珠橋」を渡ると、『鳥取城跡』の大手門にあたる「中ノ御門表門(なかのごもんおもてもん)」が現れます。
※大手門とは:城の正面玄関にあたる、有事には敵を引きつけて戦う防衛の要となる門
鳥取藩三十二万石の居城であることを象徴する全長10.2m・高さ5.0mの見事な門で、工匠たちの伝統技術を駆使して江戸時代末期の姿によみがえりました。
2023年末現在は復元工事中のため、「中ノ御門表門」から城内に入ることはできません。
※「鳥取県立博物館」前の道から入場できます(「中ノ御門表門」の左手)
仁風閣(じんぷうかく)・宝隆院庭園
「山下ノ丸」の中に入ると、明治時代に建てられた白亜の洋館「仁風閣(じんぷうかく)」と、第12代鳥取藩主によって造園された「宝隆院庭園」が見えます。
「仁風閣」は国の重要文化財で、大正天皇が皇太子時代にお泊りになられた壮麗な建物。
フランス・ルネサンス様式を基調とした木造瓦葺2階建てです。
「仁風閣」の裏手にある「宝隆院庭園」は、第12代鳥取藩主の池田慶徳が先代藩主の妻・宝隆院のために造った池泉回遊式の庭園です。
※池泉回遊式庭園とは:江戸時代に流行した日本庭園の様式で、池のまわりの遊歩道を巡って鑑賞するタイプの庭園
優美で落ち着いた風景はお散歩にピッタリ!
庭園の隅に建つ「宝扇庵」は、茶道を愉しむための茶座敷です。
これら和の空間が洋風の「仁風閣」と見事に調和しています。
三ノ丸跡
そして「仁風閣」の右手には「三ノ丸跡」があります。
ここは当初は藩主の隠居場として整備されたものの、後に藩主が住む御殿が建てられました。
それも現在は無く、鳥取西高校の敷地となっています。
二ノ丸跡
「仁風閣」から山側に登ると、江戸時代初期に作られた「二ノ丸跡」に着きます。
『鳥取城跡』でもっとも広い区画で、展望の良い公園となっています。
ここを含めた「山下ノ丸」は、鳥取県内有数の桜の名所でもあります。
巻石垣と天球丸跡
「山下ノ丸」の中でもっとも高い場所にある区画。
高く積まれた石垣を補強するために、江戸時代末期に増設された「巻石垣」があります。
これはボールを割ったような半球面に組まれた石垣で、日本唯一という珍しい遺構。
当時の石垣の管理方法の多様なあり方がうかがわれます。
鳥取城跡の歩き方② ~山上ノ丸~
『鳥取城跡』は、さらに久松山の山頂にある「山上ノ丸(さんじょうのまる)」へと続いています。
「二ノ丸跡」と「天球丸跡」の間に登山口があるので、足腰に自信のある人はぜひ登ってみましょう。
険しい石段を登って、中腹にあるお稲荷様を過ぎると、いよいよ『鳥取城跡』の本丸にあたる「山上ノ丸」に到着です。
※急な石段が続くため、動きやすい服装と靴で、水分補給のための飲み物を持って登りましょう
※ツキノワグマの生息地のため、なるべく熊よけの鈴を持参しましょう
山上ノ丸(本丸跡)
久松山の山頂にある「山上ノ丸」は、『鳥取城跡』の本丸跡。
中世の山城の特徴がよくわかる、堅固な城郭です。
本丸の東端にある「外神砦」と呼ばれる急峻な砦は、戦国時代に尼子氏の家臣・山中鹿介(やまなかしかのすけ)を、関ヶ原の合戦では、後に鹿野藩の初代藩主となる亀井茲矩(かめいこれのり)の軍勢を退けました。
ほかにも鳥取市内から日本海まで一望できる「天守台」(写真上)や、3年もかけて掘られたと伝わる「車井戸」など、堅固な城郭だった秘密がわかります。
かつては天守が建っていた「天守台」は、『鳥取城跡』の最高地点。
日本海はもちろん、鳥取砂丘まで見渡せる絶景スポットです。
鳥取城跡の歴史 ~日本史屈指の籠城戦の舞台~
『鳥取城』が築かれたのは、16世紀の半ば。
戦国時代のまっただなかで、守護大名・山名氏一族の争いの過程で造られました。
当初は鳥取市の湖山池東岸にあった城の出城(本城を守るための要衝)でしたが、因幡国(鳥取県東部)の主権を握った山名豊国が鳥取城に移り、これによって因幡国を統治するための本城となりました。
さらに山陽の戦国大名・毛利氏の手に渡り、織田信長の家臣・羽柴秀吉に攻められた後、城主が山名豊国から吉川経家へと変わりました。
この吉川経家と羽柴秀吉の戦が、世に知られた「鳥取城の戦い」です。
経家は再び鳥取城に攻めてきた秀吉を迎え撃ち、壮絶な籠城戦を展開。
羽柴軍2万に対して4千の兵をもって抗いましたが、4カ月後、ついに降伏して経家は自刃しました。
その後も因幡国の本城として使われて、江戸時代には因幡国に伯耆国(鳥取県中部と西部)を加えた鳥取藩の本城となりました。
そして池田光仲を初代とする鳥取池田家12代の居城として栄え、明治維新後に廃城されるまで、三十二万石を誇る鳥取藩の拠点として栄えたのです。
かつての鳥取城の勇姿がよみがえる! 壮大な復元計画が進行中
鳥取市はかつての鳥取城をよみがえらせるべく、復元計画を進めています。
江戸時代の城の姿を後世に伝えるために、2006年~2035年の30年計画で大規模な工事が行われています。
現在はその第1段階の「大手登城路(城の正面玄関)」の整備が進行中。
これは『鳥取城跡』のお堀の端から約200mの区間で、かつて藩主の御殿があった二ノ丸や三ノ丸に至るルートを、江戸時代の姿に復元するためのものです。
2023年末現在、すでにかつての大手橋(城に渡るための主要な橋)だった「擬宝珠橋」や、大手門の一部の「中ノ御門表門」の復元が完了しています。
そして現在は2025年春の完成を目指して、「中ノ御門渡櫓門」の復元が行なわれています。
その後は三ノ丸の正門にあたる「太鼓御門」の復元が行われる予定。
この一連の復元工事は、将来的に城の中心的な建物だった「二ノ丸三階(さんがい)櫓(やぐら)」(写真上)を復元することを目指しています。
『鳥取城跡』は国指定史跡のため、復元にあたっては多くの研究や発掘を踏まえることが定められています。
そのため一朝一夕にはいきませんが、一歩ずつ着実に往時の勇姿を取り戻しつつあります。
- DATA
鳥取城跡 (国指定史跡「史跡鳥取城跡附太閤ヶ平」)
HP①:https://www.city.tottori.lg.jp/www/contents/1575443542873/index.html
HP②:https://www.torican.jp/tottori-jouseki
住所:鳥取県鳥取市東町2
お問合せ:0857-22-3318(鳥取市観光案内所)
見学時間:常時
休日:なし
入場料金:無料
駐車場:周辺に有料駐車場等がありますが、なるべく公共交通機関をご利用ください。
駐車場MAP https://www.torican.jp/lsc/upfile/spot/0000/1001/1001_1_file.pdf
取材協力・
写真提供:
鳥取市・鳥取砂丘ビジターセンター/無断転載禁止
ライター:風間梢(プロフィールはこちら)