~ 目次 ~
幕末期の津和野を描いた百枚の連作。日本遺産のストーリーの基となった貴重な絵画。
『津和野百景図』とは、約160年前の津和野藩の姿を描いた百枚の絵です。
津和野藩の最後の藩主・亀井茲監(かめい・これみ)に仕えた栗本里治(くりもと・さとはる)が、津和野の町並みや文化・自然人々の営みなどを情緒豊かに描きました。
殿様の側仕えだった栗本里治は、その記憶や藩内各地を巡って描いたスケッチをもとに『津和野百景図』を編さん。
津和野の名所や行事・四季・食文化などを明治の終わりから大正にかけての約4年で描き上げ、一枚一枚に詳しい解説をつけました。
それらに描かれた風景や行事のほとんどは、今も津和野で見ることができます。
津和野の歴史や文化を知るための絶好のガイドです。
幕末期の津和野を「絵」と解説で知る! 全5巻にわたる百枚の絵の魅力。
『津和野百景図』は全五巻×各二十枚の絵で構成されています。
それぞれの巻に描かれている主な風景は、以下のとおり。
第一巻:津和野城~津和野藩邸の周辺の風景・行事など
第二巻:津和野藩の最後の藩主・亀井茲監(かめい・これみ)が出かけた場所など
第三巻:津和野城下のようすや町並み
第四巻:津和野城下やその周辺の自然など
第五巻:津和野藩の領内の名所・行事など
それぞれの巻の代表的な絵と、その魅力を見ていきましょう。
第一巻 ~ 津和野城から津和野藩邸周辺の風景・行事 ~
●一図:三本松城 (さんぼんまつじょう)
現在の「津和野城跡」で、永仁3年(1295年)に能登の国から来た吉見頼行(よしみ・よりゆき)が築いた山城。
そして正中元年(1324年)に3代目の直行(なおゆき)が増築し、慶長5年(1600年)に城主となった坂崎直盛が石垣を築きました。
さらに元和3年(1617年)に徳川幕府によって因州 鹿野城主 亀井政矩(かめい・まさのり)が移封され、津和野藩が明治4年(1871年)に廃藩になるまで、11代に亘り亀井氏が城主を務めました。
明治7年に城が解体されて、現在は石垣のみが残っています。
●十七図:祇園会鷺舞 (ぎおんえさぎまい)
旧暦の6月7日と14日に津和野弥栄神社 祇園会で披露されていた、鷺(さぎ)を模した衣装で踊る舞。
天文11年(1542年)に吉見家の第11代目当主・吉見正頼が、京都から山口に伝わっていた祇園会の鷺舞を津和野でも舞わせたのが始まりと伝えられています。
関ヶ原の合戦後に一時途絶えてしまいましたが、津和野藩の第2代目藩主・亀井茲政の時代に復活して今も続いています。
現在では毎年7月20日と27日に舞われていて、国の重要無形民俗文化財に指定されています。
さらに令和4年にユネスコ無形文化遺産にも登録されました。
第二巻 ~ 津和野藩の最後の藩主・亀井茲監(かめい・これみ)が出かけた場所 ~
●二十一図:太皷谷稲荷社(たいこだにいなりしゃ)
日本五大稲荷のひとつ「太皷谷稲成神社」を描いた絵。
津和野城があった霊亀山の中腹に築かれていて、当時は一般の参拝は許されていませんでした。
絵の下部に描かれている建物は左が日輪社で、右が観音堂。
大正時代に現在のJR山口線が開通してから、参拝者が増えて境内が増築されていきました。
●二十八図:覚皇山永明寺 (かくおうざんようめいじ)
三本松城(現在の津和野城跡)の北の麓にある永明寺を描いた絵。
永明寺はかつて津和野藩主の菩提寺でしたが、最後の藩主・亀井茲監(これみ)が葬儀を神式に改めたのをきっかけに、離檀(寺から墓を移して檀家(だんか)をやめること)となりました。
この絵は永明寺が亀井家の菩提寺だったときに、亀井茲監が参拝する姿を描いています。
●三十八図:鷲原馬場 (わしばらばば)
津和野城の完成後に造られた馬場(武士の乗馬の訓練や、流鏑馬などのために設けられた場所)を描いた絵。
津和野城の馬場は長さ約百十八間半(220メートル)、横が約十三間(24メートル)ありました。
ここでは毎月騎射の稽古が行なわれていて、現在の津和野でも、その伝統を受け継ぐ「流鏑馬神事」が4月の第1日曜に行なわれています。
第三巻 ~ 津和野城下のようすや町並み ~
●四十六図:喜時雨庄屋の前 (きじゅうしょうやのまえ)
津和野城の西にあった喜時雨村には、亀井家初代・亀井茲矩(これのり)を祀る元武神社がありました。
この絵は最後の藩主・亀井茲監が行列を組んでお参りする様子を描いています。
●五十六図:白糸の滝 (しらいとのたき)
津和野藩の領地の高田村にある「白糸の滝」を描いた絵。
高さ8メートルのこの滝は、水の量が増えると岩を飛び越えて直接滝壺に落ちることがあったそうで、その様子が「糸を乱す」ように見えたことからこの名になりました。
絵の左側に滝を眺める武家の一行が描かれていて、床几(しょうぎ/脚をX型に交差させた折り畳み式の椅子)に座っているのが、作者の栗本里治が仕えた亀井茲監侯です。
第四巻 ~ 津和野城下の自然など ~
●六十五図:横堀の米廩 (よこぼりこめぐら)
津和野出身の文豪・森鷗外(もり・おうがい)の生地は「石見国鹿足郡町田村横堀」。
この「横堀」という地名の起源となったのが、この絵に描かれている堀です。
「横堀」は絵の手前に描かれた蓮で埋まった大きな堀で、絵の奥側に遠く伸びているのが、城の外堀として作られた水堀です。
本堀の長さはここから五百間(約900メートル)もあったそうで、絵の左手に描かれている米廩(蔵)は藩の御用蔵。森鷗外の家はその真向かいにありました。
●七十七図:小直の雄瀧 (おただのおんだき)
津和野の城下町から日原地区に向かう途中の、小直(おただ)という地の渓谷にある滝。
雄瀧・雌瀧の2つの滝があって、この絵は「雄滝」を描いたものです。
雄滝ははるか上から流れ落ちる勇壮な瀑布で、雌滝はなだらかな斜面をすべり落ちる優美な滝です。
この絵と対になった「七十八図:小直の雌瀧 (おただのめんだき)」もあり、これら2つの滝は現在も津和野町日原で見ることができます。
(駐車場あり/徒歩250メートル~350メートル)
『津和野百景図』にはこれらを含めた4カ所の滝が描かれていて、作者の栗本里治が仕えた亀井茲監は、滝を愛でるのが好きだったと思われます。
第五巻 ~ 津和野藩の領内の名所など ~
●八十二図:青野の虹 (あおののにじ)
津和野のシンボル・青野山は標高908メートルのお椀型をした山。
津和野の町を守るかのようにそびえ、古くから信仰の対象や歌人・画人たちの創作の源になってきました。
その青野山の頂上からたなびく大きな虹を描いた絵。
「津和野の虹は夕暮れ時によく現れる」と作者の栗本里治が記していて、『津和野百景図』にはもっとも多く登場します(12回)。
●九十二図:高津人丸神社 (たかつひとまるじんじゃ)
人丸とは、万葉集に多くの歌を残した柿本人麻呂(かきのもとひとまろ)のこと。
石見(島根県西部の古名)で没したと伝えられています。
「高津人丸神社」は、人麻呂が詠んだ歌にちなんで津和野藩第3代藩主・亀井茲親(これちか)が天和元年(1681年)に津和野の高角山に遷座しました。
かつては鴨島という島にあり、それが地震で島ごと水没してしまったという伝説があります。
●九十九図:盆踊 (ぼんおどり)
「津和野踊り」とも呼ばれる独特な盆踊り。
黒い頭巾をかぶり、白い鉢巻を締めてそれに団扇を差して、優雅な所作でゆったりと舞い踊ります。
中世に流行した「念仏踊り」の特徴があり、現在も8月10〜15日にかけて津和野の町中で踊られます。
●百図:主侯の遠馬 (しゅこうのとおま)
『津和野百景図』を描いた栗本里治の主君・亀井茲監(かめい・これみ)は、夏の夕方にしばしば馬の遠乗りに出かけました。
お気に入りは喜時雨や寺田という土地で、その風景を描いた絵です。
気ままに遠乗りに出ることが多かった茲監は、ごく少数のお供だけを連れて馬を駆りました。
そのため茶道方・草履取り・敷物刀掛け持ちといったお供の人々が、駆け足で茲監を追いかけています。作者の栗本里治と思われる茶道方は、目的地に着くと手に持った火縄でお茶を点てました。
『津和野百景図』で津和野の四季・自然・歴史文化・食文化がわかる! ~ 『津和野百景図』から津和野を読み解く ~
『津和野百景図』には、江戸末期の津和野とそこで暮らしていた人々の情景が生き生きと描かれています。
だから『津和野百景図』を見れば、当時の暮らしや文化が手に取るようにわかります。
そんな百枚にも及ぶ『津和野百景図』を読み解くキーワードは、以下の4つ。
・津和野の「四季」
・津和野の「自然」
・津和野の「歴史文化」
・津和野の「食文化」
これらを意識して鑑賞すれば、より『津和野百景図』を楽しめます。
生き生きとした描写と筆致から、昔の津和野の暮らしに想いをはせてみてください。
津和野の「四季」
津和野では、春夏秋冬ごとに美しい景色が見られます。
それらの中で催される行事や習俗が、豊かな歴史と文化をいっそう趣深いものにしています。
『津和野百景図』に描かれた四季と、それらを背景にした独特の行事などにぜひ注目してみてください。
(第三十九図 鷲原の桜)
津和野の「自然」
『津和野百景図』には、津和野の豊かな自然が生き生きと描かれています。
多くの絵に登場するのが津和野のシンボル「青野山」。お椀を伏せたような丸い優美な形で、津和野を美しい湧水で潤して田畑を豊かにし、酒造りやお茶文化を育みました。
津和野に多い松林や竹林、日本一の清流「高津川」とその支流、その中で生きる獣や魚など、風光明媚な情景がいくつも描かれています。
寒暖差の激しい山あいの盆地ならではの雲海や、美しい紅葉にも注目してみてください。
(第六十一図 桂川の川柳)
津和野の「歴史文化」
津和野藩の広大な領地には、銀や銅が採れる鉱山や、たたら製鉄を行なうたたら場がありました。
それらがもたらした富によって稀有な文化が栄え、小京都と呼ばれる美しい町並みや藩校などが整備されました。さらに高い教養も育まれました。
そして山が多くて平地が少ない津和野では、山の斜面を棚田に開墾して、道ぞいに植えたコウゾやミツマタから和紙を漉くなど、さまざまな工夫と知恵によって暮らしを豊かにしてきました。
そんな津和野の文化や歴史、暮らしの中から生まれた習俗などが、『津和野百景図』には数多く描かれています。
(第十二図 藩侯館前)
津和野の「食文化」
日本海から中国山地にまで及んだ津和野藩の領地には、山・川・海のすべてがありました。
そのためとても多彩な食材に恵まれて、豊かな食文化が育まれました。
米・野菜・果実・山菜・川魚・海の幸など、四季折々の美味が『津和野百景図』には描かれています。
さらに酒造りやお茶作りも盛んに行なわれて、酒蔵や茶の湯、茶菓子などの文化が生まれました。
かつて「七海めぐって魚がなけりゃ、銭金もって津和野にござれ」と歌われた津和野の「食文化」。
『津和野百景図』には、それらを楽しむ人々も生き生きと描かれています。
(第八十六図 左鐙の香魚(さぶみのあゆ))
150年前の風景と今をつなぐ絵。描かれた風景を探して津和野を巡ろう!
『津和野百景図』に描かれた風景のほとんどは、今でも津和野で見ることができます。
「殿町通り」や「太鼓谷稲成神社」など、ほぼそのままの姿で残っている名所が多く、津和野城から見下ろした城下町の風景は「津和野城跡観光リフト」で見られます。
行事は「流鏑馬神事」や「鷺舞神事」、「津和野踊り」などが決まった日や期間に見られるので、津和野町観光協会のホームページ でチェック!
まるでタイムスリップしたかのような旅を楽しんでください。
- DATA
津和野百景図
(津和野町日本遺産センター)
HP:https://japan-heritage-tsuwano.jp/access/#access
住所:島根県鹿足郡津和野町後田ロ253
電話:0856-72-1901
開館時間:9:00~17:00
休館日:月曜 (月曜が休日の場合は翌日)
入館料:400円 (500円分の商品券付き/津和野町内の約50店舗で使用可能) ※2023年1月末まで
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取材協力・
写真提供:
津和野町日本遺産センター/無断転載禁止
ライター:風間梢(プロフィールはこちら)